「感謝と貢献」稽古第377日

『生き方働き方創造』

モナドとしての情報仲介ツール)

昨日の投稿した図にある情報仲介ツールを機能させるためには、

科学的方法とは何かということを理解する必要性を感じて、

下記の本「科学的方法とは何か」中公新書を今日読んでみたところ、大きなヒントがありました。

ライプニッツが案出した空間を説明するための概念であり、究極の単子であるモナド

お互いの商品サービス開発、改良の顧客への提供(価値提供)を価値提供先の顧客情報を共有することで助け合うということをするためのモナド(究極の単子)として情報仲介ツールがあるということが理解できてきたこと。

このモナドを活かすためには、やはり信用流通システムの必要性を改めて感じた。

 

 

ja.wikipedia.org

ライプニッツは、現実に存在するものの構成要素を分析していくと、それ以上分割できない、延長を (ひろがりも形も) 持たない実体に到達すると考えた (第3節)[1]。これがモナドである。ライプニッツによれば、モナドは構成されたものではなく、部分を持たない、厳密に単純 (単一) な実体であるが (第1節)[1]、にもかかわらず属性として状態を持つ。属性を持たなければすべてのモナドは区別できず、複数のモナドがあるとはいえなくなるからである (第8節)[1]不可識別者同一)。どのモナドも、他の全てのモナドと互いに必ず異なっており (第9節)、またモナドは変化する (第10節)[1]。このとき、或る状態から別の状態への変化の傾向性を欲求という (第15節)[1]

この「状態」は他のすべてのモナドの状態を反映する。すなわち、究極的には無数のモナドから、そしてただそれだけからなる現実世界全体の状態(ということはすべてのモナドの状態)に、個別のモナドの「状態」は対応する。これがモナドの持つ「表象知覚」能力である(モナドは鏡である)。しかし、モナドは部分を持たない厳密に単純な実体であるから、複合的なもの同士が関係するような意味で「関係」することはできない (第7節) (モナドには窓がない[1]。厳密に相互に独立している。

したがってこの表象能力、他のモナドの状態との対応は、モナドの定義からいって不可能であるところの外的な「相互関係」によるものではなく、モナドの自然的変化は内的な原理から生ずる (第11節)[1]

ちょうど、あらかじめ時刻を合わせた二つの時計のような意味での、創造の時点で予定・調整された「調和」である(予定調和)。モナドの状態の変化は、可能性としてそのモナド自身が有しているものの展開であり、厳密にそのモナドの先行状態にのみ由来する。

この表象能力には、その対応の正確さや明晰さに応じて、明晰・混雑などの度合いの差がある。すべての他の事物や世界の状態が同等に知覚・表象されるわけではない。対応するものを明晰に反映していない表象は、しかし雑然とした形で意識の状態に影響を与える。これを微小表象といい、後にいう無意識の概念に近い。たとえば眠っているときの意識は、身体や外界の状態に曖昧かつ不明瞭に対応する微小表象によって構成されている。人間や動物の精神や生命は、このモナドの表象・知覚の能力によって説明される。逆に言えば、そこから、すべてのものにはそれぞれの度合いに応じて精神や生命があるということにもなる。

 

 

(その記述部分の抜粋)

浅田彰)目的ー制御ー情報 という問題設定は、ニュートン的な科学の応用に常につきまとってくる。しかし、ここで仮にライプニッツ的と言っているようなそれは無目的なものです。

 

佐和隆光)だから、そこに目的をおいてしまうと、結局、インジャンクションとしての数学というかーニュートン的と言ってもいいけれども、そういうものによる理解なり解釈なりはできるかもしれないのだけれども、おそらくそれとは別の記述の仕方は当然あるだろうし、おそらくそちらの方が納得的というか、よりエコノミカルな説明になるんじゃないかという気はしますね。少なくとも経済学の世界にいると、ひしひしと感じるわけですが、何か目的があってその状態にたどりつくように人間集団があるとすれば、人間集団はなるべく最適な道を歩んで目標に到達するーそんなふうな世界観がニュートン的世界観だとすると、その世界観が、いま、かなり色あせてきているという気がするのです。何か無目的でありながら、ある種の調和を保っている。

そういった現象のほうがいまやわれわれの目に触れることが多いし、同時にそれをどう理解するかということが、経済学においても、あるいは自然科学においても、大きな問題になりつつあるのではないかという気がします。そういう時に、ニュートンとは異質な、ライプニッツ的な数学が復興してきて何かの手がかりを与えてくれるののではないか。そういう期待感を、山口先生と共有したいという気がします。

 

山口昌哉)情報という概念は説明の時には要るけれども、単にもとのシステムを記述する時には要らない、同時に目的も要らない、とヴァレラは言っている。それこそ本当に自律であって、それは黒田さんの遊びというところを関係しますね。

 

浅田彰)そうなると科学のイメージもずいぶん変わってくるっでしょう。コントロールの科学からオートノミーの科学へ。客観的な科学から自己言及的な科学へ。手段的な科学から遊びの科学へ。ハードな科学からソフトな科学へ。・・・・・・ただ、徹底的な分析による解像力の高度化こそがそうした変化をもたらすのだということは、何度でも強調しておきたいと思います。

 

 

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